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和紙の町 市川
「肌吉」の歴史と今

2022/02/01

弊社、大直が拠点とする山梨・市川大門は千年の歴史ある和紙の産地です。
市川の紙漉き職人の漉いた紙は美人の素肌のように美しかったことから「肌吉」と呼ばれ、江戸幕府の御用紙として献上されていました。当時、幕府御用達の紙漉き職人は「肌吉漉衆」と呼ばれ、諸役免除の特権を与えられていたのです。

丸の内、かつて江戸城を守る武家屋敷が立ち並んだ地に、この度2022年3月より新たな直営店「和紙舗大直」を開店することとなりました。市川の和紙の流れをくむ弊社がこの地に店を構えるのも、何かのご縁かもしれません。
そこで、原点に立ち返り、市川の和紙の歴史を振り返ってみたいと思います。



平安時代、市川和紙の始まり

山梨の南東部に位置する市川三郷町。その市川大門地区は豊富な水源を有し、原料となる楮や三椏などを容易に調達できたことから紙づくりが地場産業と言われるまでに発展してきました。



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ここ市川での紙漉きはいつから行われているのでしょうか。
その始まりは明らかになっていませんが、平安時代 延暦二十三年(804年)の古文書に記録が残っており、それより前から紙漉きが行われていたことがわかっています。当時、写経用の紙を作ったと伝えられています。

時代を経て、市川の紙漉きの技術が大きく発展する転機が訪れます。
1145年、甲斐源氏(その子孫が武田氏)の祖、新羅三郎義光の息子 源義清が市川の平塩岡に居館を構えました。その家臣の中にいた、甚左衛門という京の紙漉き職人が優れた技術を伝授し、品質の良い紙として市川紙が世に知られるようになっていきます。

甚左衛門が亡くなったあと、石の祠を建て紙明宮と名づけて崇めたといいます。甚左衛門の命日にあたる七月二十日には盛大な花火をあげ、草相撲をとって紙業の隆盛を祈りました。



武田家・徳川家の御用紙 肌吉奉書

時はさらにくだって戦国時代、甲斐の国を治めた武田信玄の時代。市川の紙は美人の素肌のように美しい「肌吉」と呼ばれ、武田氏の御用紙として使われます。この紙漉き職人は諸役を免除される待遇を受けるまでにいたりました。
武田氏の滅亡後、甲斐を攻略した徳川家康は、市川の紙を引き続き御用紙として指定し、漉き職人には武田氏の時代と同等の特権(諸役免除)を与えることになります。

幕府御用達の漉き職人を「肌吉漉衆」と呼んだと記録に残されています。肌吉奉書紙を漉く職人だからそう名付けられました。奉書とは、将軍の命令を将軍の名を出さずに下位のものが仰せを奉って書くもの。すなわち、公文書のための紙です。「肌吉」の語源としては「美人の肌のごとき美しい紙、それに、よい・めでたい意の吉」であるというのが有力とされています。

紙漉き衆たちは、

  漉板肌吉送るときゃ
  絵符立てて
  御用御用でお江戸まで

と誇り高く歌いながらケヤキ作りの立派な長持ちで運び、それはそのまま市川大門の紙漉き唄になりました。

市川の紙は平安の時代に始まり、京都からもたらされた技術によって大きく発展し、さらに磨かれ、格調高い紙として重宝されるようになったのです。


 

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現代の「肌吉」

この歴史を踏まえて生まれたのが「肌吉」シリーズです。
キメの細かい肌触りで、ペン・毛筆に適し、インクや墨のにじみが趣き豊か。独特の優しい風合いの紙を、日頃お使いいただきやすいよう封筒や便箋などに仕立てています。

 山梨・市川の紙のルーツを伝える肌吉紙を、現代でも使える形で届け、先人の想いを後世に伝えていきたいと思います。



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